満たされた弱者

重度身体障害者、生活保護受給中。

なぜ私がわかってあげないといけないのか。

暴力的な弱さが支配する | ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

弱さのハラスメント| ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

私には小学生時代からの友人が一人いる。
一人しかいないというべきかもしれない。どちらでもいいか。
彼女は中学の途中で県内で転校した。
以来、頻繁に会うわけではないが関係が続いている。
何故かというと、いや私にも理由はわからないのだけれど、
彼女は恋愛関係の悩みがあると私に電話をかけてくるからだ。
唐突に。家電しかなかった頃から、今でも。

 

昔からだが、彼女と私は性格が全く違う。
価値観も、違う。
彼女は恋愛関係で相手の気持ちがわからない時に私に訊く。
私は相手の男性に直接会ったことは一度もないが、いろいろ想像して答える。
唐突に「去年の5月にこんなことがあって」とかそんな日常シーンから事の始まりを語られるのも毎度のことだ。
それは別に構わない。迷惑な訳じゃない。

 

今回は、あまりにも連日話さなきゃいけなくて喉も痛くなってきたし、
話が堂々巡りで埒が明かなかったので、
彼女の仕事が休みの時に家まで来てもらった。
男性からモラハラを受けているという話で、
こんな酷いことを言われたと訴える彼女。
電話で聞いていた時はそれは酷いねと言っていたが、
どうも妙だなと思う部分も多かった。
そこで、彼とのLINEのやりとりを見せてもらった。

 

「こんなことを言ってくる意味がわからない」
「普通こんなことは言わない」
「私をバカにしている」
彼女の訴え。
実際に一部のやりとりを見た私は
「なぜこの言葉をそんな意味にとった?」
「この人一言もそんなこと言ってないよね!?」
「むしろあーそういう価値観の人だなってわかるよね普通!!」

男性の価値観は私と近いものだった。
結婚願望はない。
結婚しなくてもパートナーとして付き合っていくことはできる。
などなど。

彼女は
大人は結婚して家庭を持つのが当然。
結婚しないけど付き合う=セフレ扱い
好きだけど結婚する気はない=責任逃れの言い訳
だと考えるそう。

 

もう一度書きます。
私の価値観は彼に近い。
たとえ今、身体が自由に動いたとしても結婚はしたくない。

これは何度も彼女に言っているし彼女も頷いた。

その上で彼の価値観を
「意味わからん」
「絶対おかしい」
「無責任」
と繰り返し言うのは、私のこともそう思ってることになる、というと私の考えすぎになってしまうのだろうか?
彼女にその意図がないであろうことは想像がつく。
だけど、なぜ私がいつも彼女の意図を汲まなければいけないのか。
さすがにもう、うんざりしてきた。

 

彼女の話を聞けば聞くほど、
私が彼女に言いたいことは彼が彼女に言ったことになっていく。
それが彼女にとってモラハラだというのなら、
彼女が私にしていることは、弱さのハラスメントじゃないのか。

 

おかしな話だなあ、弱者は私ではなかったか。

 

「わかってくれる、私の気持ち」
彼女の口癖だ。
想像はするがわかったことなど一度もない。

 

 

 

2015

1月も終わりのこの日になって今年も宜しくとかそんな話はしない。

 

1月はたまたま、2週連続で趣味の外出をした。
すると、自分でも予想していなかったことが起こった。
決心がついた。
2015年でちょうど20年になる。
厳密には春からなのでまだ20年経っていないけれど、
数ヶ月なんて時間は今の私にとってはもはや重要ではない。

 

本当に、自然に。
この20年縋っていたものから手を放す決心がついた。
何故だろう。
自分でもわからないけれど。

私はもう大丈夫。
ありがとう。

って、伝えることすら、しないほうがいい。
最初から私の心の問題だものね。

だから伝わることのないここに書いておく。

 

ありがとう。

 

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東京十景

東京十景

 

 

2014末

もはや残り数分なので、
書けることは知れたものだ。

2014年、ヘルパーさんのことで苦しんだ時期もあったけどおおむね平和でした。
こんな風に1年があっという間に過ぎて、
特に変化もなく、歳を取って死ねたらいいな。


皆様にとって、2015年がよい年になりますように。

苦しめば人は成長するという単純な逃避

 

「苦しまなければ成長できない」は「苦しんだから成長した」と非常に近い。
そして「苦しんだ=成長した」とは限らないのだが、
何故か人々は困難を「乗り越える」と「通過する」との区別をあまりしないようだ。

 

上の引用はドラマ内のセリフであるが、私はこれを見た時にとっても納得したのだ。
私自身、無駄に苦しんだ経験があるから。
冷静に思い返せば、私の成長を促したのはすべて成功体験だ。
苦しんだ経験は「しんどかったなー」という感想だけを残して、
それにより自分が成長したという実感には繋がっていない。
過ぎ去った今でこそ「まあそういう経験もあってもよかったかな」と思えるけれど、
リアルタイムなら絶対にノーサンキューだ。
今現在も一般から見たら苦しみの最中にあるようにみえるかもしれないが、
私が経験した精神的苦痛と現在の物理的不自由を比べるなら前者は後者を圧倒的に凌駕する。
ゆえに現状で私は苦しんでいない。
そして身体障碍者となったことで成長などしていない。
ただ精神的苦痛から解放されたことで安定はしている。
他者から見れば安定が成長の結果に見えるかもしれない。

 

苦行を積むことで悟りを開けると思いたいなら、
自分にそれを適用しても構わない(多分)。
でも悟りは決して担保されているものではない。
だから強迫観念でしかないなら、早いとこ自覚した方がいいんじゃないかしら。
苦痛に浸って酔っていても、それだけで成長するとは限らない。
そこから逃げ出してその苦痛を手にとって眺められるようになった時、
もしかしたら、少しは成長していたりするかもしれない。

 

左手と右手の人差し指を比べる

私の今の身体障碍の原因となった病気は発症率が10万人に1~2人である。
程度の差はあれ身体が動かなくなるが、殆どの人が数ヶ月で元の状態に戻る。
日本では重篤な後遺症が残るのは10%ほどらしい。
ということは私は100万人に1~2人の症例ということになる。

 

その病気の経験者のコミュニティみたいなところで私の経緯を書いてみた。
発症後4年で全く歩けないし握力ゼロで風呂トイレ全介助だけど1人暮らしできますよ、と。
この病気で身体障害者手帳を取るのは難しいとか言われることもあるそうだけど、
原因がなんであれ障碍の程度と回復の見込みに応じて手帳も取れるし、
障害者年金も貰えるし福祉の制度も利用できます。
意外と何とかなりますよ、と。

 

私は歩けるようになりたいですって書いた訳じゃない。
それはもう無理だと思っている。
その上で、不自由なく生きていけるように今の日本はなっている、
だから大丈夫ですよって言いたかっただけだ。

 

だが90%の人にその情報は必要ない。
あまつさえこんなレスが付いた。

私は1年入院しましたが退院時敢えて車椅子を使わないことにしました。
今では歩けています。頑張りましょう!

いやいやいや。いやいやいやいや。
悪気はないのでしょうけど、そして1年入院されたのならそれなりに後遺症は重かったのでしょうけれど。
私には「敢えて車椅子を使わない」なんていう選択肢はない。
室内なら床を這って移動できるだろうけどトイレやお風呂は使えないし、
這って部屋の外に出たら服がボロボロになるだろう。
他人が見たら怖いだろうし。
車椅子を使わないとはそういうことである。

 

その病気の中では重度の経験をするほどに、
自分よりも重度の人を想定しにくくなる。
これは私自身にもいえることで、
なまじ上肢全廃下肢全廃総合1級なんていう身体障害者手帳を交付されてしまうと、
私よりも身体が動く人の困難を軽く見てしまうことは実際ある。

 

でもそういうことじゃない。
歩けるならいいじゃんということではない。
痛みがあったり、動けるからという理由で福祉制度を十分に利用できなかったり、
困難の理由は様々で私が勝手に想像する範囲内に収まるものではない。

 

だから私はそれを忘れないように、
自分の左手と右手の人差し指を比べる。
どっちも私の人差し指だけど、左手はキータイプできない。
左手は薬指、右手は人差し指で今この文字列を打っている。
左手は指を伸ばす力は強いが人差し指と中指が曲げにくい。
それはそれで伸ばす力を利用することもあるけれど、
右手と同じようには使えない。
いくつかの筋肉の回復度合いによって各指は動きも力も全然違う。

 

各指を見ても手全体でできることはわからない。
私以外の誰にも。療法士さんでさえも。
私の指は、病名で症状を括ることはできないということを私に思い出させてくれる。

 

 

現実に悪影響がありそうなアニメって

私はアニメが好きだ。
特に深夜アニメを見る。
週に20本近く見る。
部屋にポスターやフィギュアはないが、何か罪を犯したら「犯人はアニメ好き」って報道されかねない。

 

そういう私が見ていて「現実世界に悪影響をおよぼすんじゃないか」と思うアニメが1本ある。
サザエさんだ。
まず、深夜アニメと比べたら認知度が半端ない。
そしてアニメ版サザエさんは「戦後~せいぜい80年代の価値観」を引きずっていながらカレンダー上は現代である。
無邪気な視聴者は、携帯電話やゲーム機がないって変だよねとは思いつつ、
家族観については「これが当たり前の家庭だ」と思いかねないのではないか。

ちびまる子ちゃんは昭和40年代という明確な設定がある上に、登場人物が相当ファンタジーなので本気にする人はそうそういないだろう。
理想の家庭像を押し付けるようなものでもないし。
アニメ版サザエさんにはしばしば怖いなあと思わされる価値観、前提がある。

  • 妻は夫の付属物である
  • 男に家事をさせた場合、女は特別な感謝または謝罪をするべきである
  • 妻は家庭を守るのが仕事である
  • 子供はとりあえず勉強をしなければいけない。そこに理由は必要ない
  • 愛情があれば怒鳴ったり手を上げたりしてもよい

などなど。
例外的な夫婦も登場するが、それは「女房の尻に敷かれて可哀想なサラリーマン」的描写になることが多い。

私は70年代後半生まれなのでこういう価値観が当然だった時代を一応知っている。
けれど今はそこから脱却して、男性も女性も1人の人間として独立した意識を持ち、
子供にもそれを伝えていくことが健全な社会を構成するのだと思っている。
なのでサザエさんを見て不愉快になることは結構ある。毎週見てるけど。

原作のサザエさんは4コマ漫画で、今のアニメ版とはかなり異なる作風だ。
新聞で連載されていただけあって時代への風刺色が強い。
何故か昔、家に3巻と68巻があってそれだけしか読んだことはないが、
アニメで毎回出るような「一家で食卓を囲む」シーンはなかった。
そりゃ4コマだから。
あんなに優等生臭い家族観でもない。
威厳のある父、従順な母、お転婆だが思いやりのある娘、お人好しの娘婿、いたずらっ子の弟、聞き分けのいい妹、素直だがたまに頑固になる3歳児。
なんだこれは。なんだ、これは。

 

もうこれ以上説明しても伝わらない人には伝わらないだろうし、
わかる人には嫌ってほどわかるだろうからこの辺でやめておく。

 

ナタで人をぶち殺すアニメを見てもそれが普通だとは思う人はほぼいない。
でもサザエさんを見てあの世界が普通だと思う人はいると思う。

 

 

境界線上で両方の世界を見ているつもりで幻覚を見ていた

…わたしの気力は否定することだけに向けられていた。世界は、濃密だろうが虚ろだろうが、ただ否定したくなるものでしかなかった。目覚めているべきときに眠った。話をすべきときに黙りこくった。楽しいことが起こりそうだと避けた。飢え、渇き、孤独、退屈、恐怖はすべて、敵、つまり世界にたいする武器だった。もちろん世界のほうは痛くも痒くもないし、わたしを苦しめたが、わたしはその苦しみに陰気な喜びを見出した。自分の存在が実感できたから。自分が崩壊しないためには、ノーと言いつづけなければならないような気がした。
(スザンナ・ケイセン著 吉田利子訳「思春期病棟の少女たち」より)

 

思春期病棟の少女たち (草思社文庫)

思春期病棟の少女たち (草思社文庫)

 

 翻訳と、

Girl, Interrupted

Girl, Interrupted

 

 原著と、

17歳のカルテ (名作映画完全セリフ集スクリーンプレイ・シリーズ)

17歳のカルテ (名作映画完全セリフ集スクリーンプレイ・シリーズ)

 

 映画のスクリプト本と、

DVDを持っている。

 

最初に映画を観てすっごく好きになって、しばらくしてDVDを買って、またしばらくしてスクリプトと翻訳本(私が買った時は文庫化されていなかった)と原著を買った。
原作はノンフィクションなのでカオスだ。
映画には起承転結がある。精神病院という場所にも映画なりの盛り上がりが作られている。それはそれで面白い。
だが原作を読めば、精神疾患というもの(パーソナリティ障害は病気ではないとかそういうのは置いといて)にわかりやすいドラマ性があるとは限らないことがよくわかる。
個々のエピソードはドラマティックかも知れないが、伏線みたいなものはない。
映画と同じなのは「アスピリン1瓶とウオッカ1本をのんだあと、簡単な診察で精神病院に送り込まれた」こと、そこで出会った何人かの患者…名前と病名、性格など。
原作では最後に少し、退院後に会った元患者の様子が書かれているのが興味深かった。

世界を否定して自分を肯定する→独善
世界を肯定して自分を否定する→自己否定の沼
世界を否定して自分も否定する→みんな呪う
世界を肯定して自分も肯定する→ハッピー

 

数年前までの私は「みんな呪う」パターンだった。
私も私以外のものもみんななくなればいいと思っていた。
一方で自分以外のすべてを愛する気持ちもあり、
そして私だけが真実を見ているような気もした。
すべては矛盾していて、莫迦げているようにさえ思えた。
どうしてそこまで苦しんでいたのだろう?
今となってはもうよくわからない。

先日の療法士さんとの会話
「でも今はそんなこと(死にたいとか)考えないでしょう?」
「いや、考えますよ。考えるっていうか、望みはするけど自力では無理ですもんねそんなの今の筋力じゃ。死なせてもらえるならそのほうがいいけど。安楽死の制度が日本にもあればいいなーって思うし、そういう運動を考えたこともありますけど、仮にその制度ができても私は対象外になるでしょう。こんなに元気だし」
「そうでしょうね」
「だから、真剣に考えても仕方がないです。私を生かしているのも社会制度なので、生きていることを非難されても私にはどうしようもないから。もし制度が私を放置しても親が生きている間は野垂れ死にはさせてもらえないでしょうし、あとは快適に生きられるよう考えるしかないですね」

 

よくわからないことがとても苦しかった。
なのに今はよくわからないからいっかーと放置できる(精神的・哲学的問題は)。
目に見えるもの、訪問介護の時間数の調整などは考える。
経済状況の判断もできる。

今の日本が生きづらいわけじゃない。
単に私が社会不適合者であるだけだ。
何も間違っていなくてもそういうことはある。

 

苦しみすら愛していた。
それだけは、間違っていなかったと思う。