満たされた弱者

重度身体障害者、生活保護受給中。

元メンヘラ

メンヘラという表現は適切ではないかもしれない。

だが今振り返ると、以前の私はメンヘラと表現されてもおかしくない状態だったのではないか。

 

身体障害者になった経緯と生活保護を受給することになった経緯を説明しようと思うと、やはり精神疾患のこと抜きにして語るのは難しい。

時は2004年まで遡る。

当時私は小さなweb制作会社で働いていた。10時出勤、退社は終電の時間である。中小の制作会社を知っている人ならゆるいなあと思うだろう。実際他の社員はタク送や泊まりも珍しくなかった。私が毎日帰宅できたのは私が大して役に立っていなかったからだ(と私は今でも思っている)。

入社半年で私の精神状態は著しく悪化した。私に何をさせるべきか、会社が持て余しているように感じてしまった。社長には「役に立たないならクビにしてくれ」と自ら訴えた。社長はそれはきちんと判断するから、そんなに心配しなくてよいと言ってくれたが安心はできなかった。

ある日出社しても指が震えてキーが打てなくなった。喋ろうとすると泣いてしまうのでメモに不調のため早退しますと書いて副社長に見せた。副社長は私の様子を見て常態ではないとすぐに認め、即座に早退させてくれた。そもそも就職する何年も前から希死念慮を抱えていた私は、精神科を訪れた。向精神薬をためて自殺するためだった。

しばらく会社には通ったが酷い有様だった。慣れない薬をのんでいるのでぼんやりする。眠気も襲ってくる。ミーティングで誰にも怒られていないのに座っているだけで泣いてしまう。結局2週間ほどで辞めることになった。最初は一応休職という話だったが、なし崩し的に。会社の名誉のために言っておくが、決してブラック企業ではなかったと思う。

退職後1年半は社会保険の傷病手当金で暮らした。働いていたときの約6割のお金がもらえる制度である。今はないかもしれない。当時は通っていた精神科のケースワーカーさんが説明してくれた。ちなみに私はこのとききちんと手続きしなかったので、失業保険はもらえなかった。いまだに失業保険のことはよく知らない。

こうして私は無職になった。傷病手当金をもらうための診断書は「抑うつ状態」。うつ病ではない。主治医には訊いてみた。人格障害だろうね、と言われた。当時の症状は自傷、向精神薬の過量摂取、不眠、希死念慮抑うつ摂食障害など。独り暮らしの部屋にこもりがちで、1ヶ月間主治医以外と会話しなかったこともあった。その会話も2回、10分ほど。

傷病手当金がもらえる期限の1年半を過ぎても、私の状態は仕事ができるようなものではなかった。そこで主治医からの提案で、生活保護を申請することになった。2006年のことである。私は役所の人に掛け合う気力もなかったので、クリニックのケースワーカーさんが同行してくれた。実家に帰ると病状が悪化することを強く訴えてくれて、また私の実家は裕福ではなく私を扶養する余裕はなかったため、2回ほどの交渉で保護決定が降りた。

それから1年半ほど引きこもり生活が続いた。ただ、大学時代の仲間が頻繁にイベントを行う飲食店みたいなものがあって、そこにはよく呼ばれて行った。知らない人もいたけど、そもそも外に出られる日は調子がいいので徐々に交際範囲は広がった。店のスタッフとも仲良くなった。店で向精神薬をのみすぎてフラフラになった私を家まで連れて帰ってくれたりした。

2007年のある日、店長から「うちで働きませんか」と電話がかかってきた。私の状態を考慮し、接客は一切なしで経理をやってほしいと言う。しかも週1回、5時間からでいいと。私はちょうど調子がよくなってきた時期だったので快諾した。経理の経験はなかったが会計ソフトの使い方や複式簿記を勉強し、スタッフの給与計算から店の確定申告などをどうにかやりとげた。そこで3年ほどバイトを続けた。体調にあわせて週1~2回。それでは生活できないので生活保護を受けつつ、収入は申告して保護費から引いてもらった。最悪のときは乗り越えたように思っていた。今後、正社員での転職もできるのではないかと考えたりした。2010年のこと。

そんな8月のある日、主治医が急逝した。70歳は過ぎていたが元気な人だったのに。心筋梗塞だった。私は呆然とした。泣いたりはせずただ呆然とした。

そして運命の日がきた。9月2日のこと。バイト先の副店長に、区役所の人から精神障害者手帳をとってはどうかという話があった、と言うと、彼は鼻で笑って「おまえ普通やんけ」と言った。さらに「おまえみたいなのが自治体の財政を圧迫してる」と、全く悪意なく、思ったことをそのまま言った。私は適当に笑った。

その後の記憶はない。ただ残ってたmixi日記を見ると、「私は普通の時しか部屋から出られないので、あなたに私が普通に見えるのは当たり前です。だが私は確かに自治体の財政を圧迫してる。そうなんでしょうな。」と書いてあった。そして9月5日早朝、死んだら自治体の財政を圧迫しなくてすむんじゃね?というノリで溜め込んだ向精神薬をのんだ。100錠で死ねると言われている薬を120錠、さらに相乗効果がある薬や吐いてしまうのを抑える薬など、もろもろ200錠。何もかもどうでもよくて死は安堵だった。なんの苦痛もなく意識を失った。だが亡き主治医は言っていた、この薬は下手すりゃ1週間もつと。

結果的には件の発言をした副店長がうちまで来て、救急車を呼んだ。意識不明だったのは4~5日だと思うが定かではない。敗血症と肺炎を併発し、かなり危険な状態だったそうだ。意識が戻っても現状を認識できず、夢とうつつの狭間でさ迷っていた。

ギラン・バレー症候群を発症したのは9月18日だった。大きな病院の精神科で、急速に身体が動かなくなった。背もたれなしでは座位を保てなくなり、支えてもらっても立てなくなり、食事のスプーンが持てなくなり、寝返りができなくなり、ナースコールのボタンが押せなくなった。最初は甘えてるだけだと思われ怒られたが、余りの異状に甘えではないとわかってもらえた。ギラン・バレー症候群を知っているナースなどいない精神科。私の苦痛は軽視されていた。ギラン・バレーには先行感染がある。インフルエンザや食中毒など、高熱を出したあとに発症することが多い。つまり私は、自殺未遂がきっかけでギラン・バレーになったのだ。