満たされた弱者

重度身体障害者、生活保護受給中。

境界線上で両方の世界を見ているつもりで幻覚を見ていた

…わたしの気力は否定することだけに向けられていた。世界は、濃密だろうが虚ろだろうが、ただ否定したくなるものでしかなかった。目覚めているべきときに眠った。話をすべきときに黙りこくった。楽しいことが起こりそうだと避けた。飢え、渇き、孤独、退屈、恐怖はすべて、敵、つまり世界にたいする武器だった。もちろん世界のほうは痛くも痒くもないし、わたしを苦しめたが、わたしはその苦しみに陰気な喜びを見出した。自分の存在が実感できたから。自分が崩壊しないためには、ノーと言いつづけなければならないような気がした。
(スザンナ・ケイセン著 吉田利子訳「思春期病棟の少女たち」より)

 

思春期病棟の少女たち (草思社文庫)

思春期病棟の少女たち (草思社文庫)

 

 翻訳と、

Girl, Interrupted

Girl, Interrupted

 

 原著と、

17歳のカルテ (名作映画完全セリフ集スクリーンプレイ・シリーズ)

17歳のカルテ (名作映画完全セリフ集スクリーンプレイ・シリーズ)

 

 映画のスクリプト本と、

DVDを持っている。

 

最初に映画を観てすっごく好きになって、しばらくしてDVDを買って、またしばらくしてスクリプトと翻訳本(私が買った時は文庫化されていなかった)と原著を買った。
原作はノンフィクションなのでカオスだ。
映画には起承転結がある。精神病院という場所にも映画なりの盛り上がりが作られている。それはそれで面白い。
だが原作を読めば、精神疾患というもの(パーソナリティ障害は病気ではないとかそういうのは置いといて)にわかりやすいドラマ性があるとは限らないことがよくわかる。
個々のエピソードはドラマティックかも知れないが、伏線みたいなものはない。
映画と同じなのは「アスピリン1瓶とウオッカ1本をのんだあと、簡単な診察で精神病院に送り込まれた」こと、そこで出会った何人かの患者…名前と病名、性格など。
原作では最後に少し、退院後に会った元患者の様子が書かれているのが興味深かった。

世界を否定して自分を肯定する→独善
世界を肯定して自分を否定する→自己否定の沼
世界を否定して自分も否定する→みんな呪う
世界を肯定して自分も肯定する→ハッピー

 

数年前までの私は「みんな呪う」パターンだった。
私も私以外のものもみんななくなればいいと思っていた。
一方で自分以外のすべてを愛する気持ちもあり、
そして私だけが真実を見ているような気もした。
すべては矛盾していて、莫迦げているようにさえ思えた。
どうしてそこまで苦しんでいたのだろう?
今となってはもうよくわからない。

先日の療法士さんとの会話
「でも今はそんなこと(死にたいとか)考えないでしょう?」
「いや、考えますよ。考えるっていうか、望みはするけど自力では無理ですもんねそんなの今の筋力じゃ。死なせてもらえるならそのほうがいいけど。安楽死の制度が日本にもあればいいなーって思うし、そういう運動を考えたこともありますけど、仮にその制度ができても私は対象外になるでしょう。こんなに元気だし」
「そうでしょうね」
「だから、真剣に考えても仕方がないです。私を生かしているのも社会制度なので、生きていることを非難されても私にはどうしようもないから。もし制度が私を放置しても親が生きている間は野垂れ死にはさせてもらえないでしょうし、あとは快適に生きられるよう考えるしかないですね」

 

よくわからないことがとても苦しかった。
なのに今はよくわからないからいっかーと放置できる(精神的・哲学的問題は)。
目に見えるもの、訪問介護の時間数の調整などは考える。
経済状況の判断もできる。

今の日本が生きづらいわけじゃない。
単に私が社会不適合者であるだけだ。
何も間違っていなくてもそういうことはある。

 

苦しみすら愛していた。
それだけは、間違っていなかったと思う。